==== PART 3です ==== 2005.7.22 鹿児島ラ・サール高校25期の三毛紀夫氏(大阪支部)が、「地域医療研究会ML」という、同6期の服部行麗氏(谷山で内科クリニック開業)が主催する全国規模の医療系MLに投稿した、ラサールのブラザーハウスの建物の由来に関するメールを、転送用に21期の後藤正道がまとめたもの。 lskghqへの転送については、三毛紀夫氏の了解済。 =============================== Date: Wed, 1 Jun 2005 04:07:10 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:045164] 建築探偵 鹿児島谷山もの 31 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML), afdjp101@oct.zaq.ne.jp みけです、、 あと、、ようやく 著作権を きにせず、 ラ・サール学園が 学外者にも 見てもらえるように 作成している ホームページから 引用できます。、 さきほどみていたら、 http://www.lasalle.ed.jp/campus.html ここの写真の 2枚目が ブラザーハウスです、 なお この写真の 右半分は おそらく 75年前に作られたモノを 一生懸命に 化粧直ししていった部分、 玄関は 戦前、 教皇の使節を迎え入れたり 松岡先生たちが 1期生のときに 編入時に 裸足でみんなで 並んだ集合写真を撮ったりで、そのままのところです。 ちあみに わたしは この写真の右側の1階で LL教室があり 英会話を少し習いました、 2階は多くの人が タイプライターを習ったところです。 写真の 左半分は 現在の 「聖堂」で 昭和のいつごろかに 改築されて 戦前・戦後の原形は いっさいありません。 (改築はおそらく 昭和40年代前半か?) 中は 1枚目の写真のとおり 通常、在校生は あまり中には入りません。 また ブラザーハウスの中の公用語について ご質問がありました、 私達の ころは ブラザーハウスの中は フランス語。 授業は 英語で 教えて 倫理の授業は 日本語で教える という 外国人ブラザーたちだったように覚えています。 今でも たぶん そうでしょう ブラザーたちにも いろいろな人たちがいました。 では、 Date: Tue, 7 Jun 2005 02:15:22 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:045277] 建築探偵 鹿児島谷山もの 32 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) 三毛です、 ゆっくりゆっくり ブラザーハウスの 歴史を調べています。 偶然 お話できた、フランシスコ会系のシスター に こうこうしかじかで、鹿児島のフランシスコ会を調べています というと 「谷山ですね」 といわれて、こちらは驚くのみ、 さらにこうこうしかじか、、と説明すると 「わたしたちの修道会をはじめたのは ガブリエル神父様です。  お化け屋敷とかいう 家を借りて 孤児院をしていたそうですよ」 「でも 今の鹿児島にはフランシスコ会は ないでしょう。」 はい、それも知っていますが、とにかく建物が残っているのですよ。。 とこちらが説明すると いろいろと教えて頂けました。 まだ そのころ ガブリエル神父様と 一緒に活動したシスターが おられるらしい。。 (う〜〜ん、インタビューしたくなったが さて どんなものか) 最後に 「貴方の職業は なんですか?」とシスターに聞かれ 医者ですと 答えると 不思議そうな顔をされていた。 そういえば、同窓会の席で 現在のラ・サール学園の校長先生に お話したときも、「職業はなんですか?」と聞かれ、 「医者です、、」と答えると 驚かれていた。 さて、せっかくだから、その ガブリエル神父様のことが 書かれたサイトを見つけたので、引用させていただきます。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 http://www.tokyo.catholic.jp/text/kyokunews/1994/kn115.htm 教会・修道院めぐり(35) 『お告げのフランシスコ姉妹会』 「お告げのフランシスコ姉妹会」 の創立者ガブリエル・マリア・ジュセロ・デュセネ 師は、1987年カナダのケベックに生まれ、 1919年フランシスコ会に入会した。 教皇ベネディクト15世の 『宣教に関する回勅』 の呼びかけと、 宣教地から帰国し た宣教師の話に心をうたれた彼は、 自分も宣教師になることを希望した。 1923年 司祭に叙階されたのち、 1925年日本に宣教師として派遣され、 奄美大島・鹿児島 で宣教に従事した。 当時の日本は不況と不作の影響が至る所に見られ、 鹿児島でも町に捨て子が続出し、 市の養育院でも収容しきれないありさまであった。 ガブリエル師はこれを見過ごすこ とができず、 孤児救済に手をのべた。 彼と共に子供たちを助けようと集まったフランシスコ第3会の姉妹たちの協力を得 て、 1933年3月25日、 聖母のお告げの祝日に 「ナザレトの家」 を創立した。 この人々が現在の 「お告げのフランシスコ姉妹会」 の萌芽となった。 神父は日毎に増加 する孤児の世話をしながら、 邦人修道会の創立をめざし、 フラシンスコ第3会の姉妹 たちの霊的指導にあたった。 1935年、 アジアの聖フランシスコ律修第3会に属する修道会として、 この会の設 立許可をローマに申請しその許可を得た。 鹿児島にいたフランシスコ会の神父たちは、 東京に本部を移転する事になった。 フラ ンシスコ第3会の姉妹たちも共に上京し、 大田区久ヶ原に住まいを定めた。 遂に1938年、 東京大司教区長土井辰男大司教より、 教区直轄の邦人修道会「お告 げのフランシスコ姉妹会」 として正式な許可を得た。 戦争中にも多くの子供たちの世話を続け、 困難を乗り越えた。 戦後は 「ナザレトの家」 を養護施設 「聖フランシスコ子供寮」 と改め、 戦災孤 児の救済にあたり、 時代と地域の要望に応えて幼稚園、 保育園を開設した。 創立者のガブリエル師は、 1978年帰天した。 彼は自分が養成した修道女たちが、 マリアのように 『お言葉どおりになりますように』 の精神と、 聖フランシスコの回 心に学ぶ姉妹として生きることを望んで 「お告げのマリア」 と 「フランシスコ」を会 の名称とした。 会員はこれを会の霊性を表す遺産として大切に守り継いでいる。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜以上 引用おわり〜〜〜〜 おそらく 「お化け屋敷」とよんでいたのは  当時の小松原にあった 島津別邸のことかな、、と想像しています。 (のちに 初期の ラ・サール学園の寮になっていたはず、  これにまつわる 言い伝えは すごいものがある、   台風のとき 必死になって 寮生が 雨戸の裏で 波風に    耐えていたと 言い伝えを聞いた>ルース台風のはず。    当時の台風の被害は 今の谷山の市電の線路まで 冠水したと     古い記念誌にのっている) とにかく 確かめてみないといけない。 どうも 戦前の谷山というのは 神学校はあるわ、幼稚園は作られるし、 修道院もあるし、 今日の話では 孤児院まであった? 意外なのだが、案外、戦前の谷山は 一大カトリックモールだったのかもしれない。 では Date: Sun, 12 Jun 2005 11:41:03 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:045344] 建築探偵 鹿児島谷山もの 33 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) 三毛です。 ラ・サール学園の同窓会には 数多くの mlや HPがあって、部外者には 非常に複 雑で 理解できないでしょうが、 そういうネット社会なんです、 ボクも、5つくらいの mlにはいって 配信を受けています。 本日、たまたま あるmlの配信読んでいたら、 http://www.lasalle-alumni.jp/jp/japanLS.htm というサイトがあるのを知りました。 いつの間にできていたのかは 知りません。 で、、丹念にみていたら、 mlのメンバーのみなさまが 見てみたいという ブラザーハウスの 見事な写真が ありましたので、 紹介します。 75年前のころの面影は 側面の  教会独特の 紋様、装飾で 残っています。 上記サイトの鹿児島のところの写真、 1枚目、桜島がみえる、僕らの頃は 校庭から 見事に桜島がみえ   高校校舎の 窓からも見えた、いつも 見ていた、ただし、この角度は   現在の ラ・サール学園のどこから 見たのかどうかは わからない。 2枚目 これが わたしが 一生懸命に調べているブラザーハウスの  西側から見た写真です、 在校時、1階部分は LL教室、2階部分は  タイプライター室でした、今は どのように使われているかはわかりませんが、  できたころの 写真の全体像から伝わる装飾の様子がまったく同じママ、  ただし、外装はかなりきれいになっており、在校時は、もっともっと  ぼろい外観でした。 現在の新築された St Joseph Hallの 真ん前、  東側に位置します。   この写真の 右側に回り込むと ブラザーたちの 食堂が 見えていた物です。  ボクにとってはそれが フランス料理の原型というか 基本であり、  在校当時ですら、厚いステーキを食べていたのを窓越しにみたのを  覚えています、その窓の下側の外側には 大量のワインの空瓶が棄てていました。  ボクにとっては どれだけ高級なフランス料理屋に連れて行かれても、  若い頃にみた、この食事の風景が フランス料理の原点であり、  パンと お肉と ワインの あの光景は 日本でも もっとも 本格的な  修道士たちの フランス料理 (毎日の食事)と 思っています。 3枚目 最近できた ホール、  開校時にはここには 木造の ホールがあった  よく 講堂・体育館として使ったが、壊されて いまや近代的な このような  建物になっている、 中は知らない。 4枚目 体育館、 在校時はなかった、卒業直後に完成したので、知らない。  僕らの頃は ここに 購買部があって、それこそ カフェテリアをやっていた  ご夫妻が ささやかながら、文具を販売されていた。 校章とか クラス章など  が売っていたが、今ではどこで売っているのだろう 5枚目 聖ラ・サール像、 正面玄関の 真向かいにある。  逆光でわかりにくいが、ソテツの間にみえるのが 古いブラザーハウスの側面像。 6枚目 マリア像、   1930年当時は ここにブラザーハウスの 北側部分があった  谷山の埋め立ての時に 諸処の理由で、この部分が壊されて、新装されて  御聖堂になった。マリア像の左うしろが その入り口になる。  在校時に なんどか 中にはいったことがある。 7枚目 ブラザーハウスの玄関、 1期生の松岡先生が 高校2年の春に  編入してきたとき 1期生全員と 当時のマルセル プティ校長が  ここで記念の集合写真を撮っていてその写真は現存する。  非常に粗末な服装に 生徒は全員裸足で いかに 戦後の混乱期  だったかが わかる。それ以外に おそらく 1931年6月、POPEの使節が   谷山のフランシスコ会の このブラザーハウスを訪問したときに、ここに大きな  日の丸が 2本 クロスで かけられて、記念写真を撮ったのが現存する。  まず その玄関と 一致する、、(ただし、玄関は 2つあったという 証言が  ある、、ボクの在校時には ここしかなかった)  この玄関の 右側が 上記2枚目の写真につながる部分。  玄関の 左側が マリア像と御聖堂の建物になる。  外装が上手にされていて、、時代の差を感じさせないが、  玄関の右側は 75年前の 建築である。  ここをバックにした フランシスコ会時代の 多くの集合写真・記念写真が   現存する。 8枚目 現在の入り口、通常、学園の紹介の写真というと  この位置から、   アルファベットで、LA SALLE と書かれたのが よくわかるような  写真がおおい、代表的な写真と言える。  その建物と 体育館の間にあるのが、もう壊されて新築中になっているという  高校校舎である、わたしは そこで、高校時代の3年間、授業を受けた。 以下   函館校の写真 3枚  仙台のラ・サールホームの写真 4枚   (6月の4日 新装され 落成式がおこなわれた) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 Date: Sun, 12 Jun 2005 12:54:39 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:045345] 建築探偵 鹿児島谷山もの 34 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) 三毛です。 ブラザーハウスの 過去をしらべているうちに わたしなりの考えが まとまりつつあります。 時系列にします。 1.昭和3年、カナダのケベック人のフランシスコ会の宣教師たちが    谷山の小松原に引っ越してきた   元々は 市電が私鉄だったころの社長宅だったらしい。   そして、聖アントニオ修道院、聖アントニオ神学院などをつくった   買収面積 5000坪 資金源はモントリオールの人で   聖職者をおおくだした兄弟の長兄。 2.昭和5年 9月15日 いままでの木造の和式の建物ではなく、   本格的な 煉瓦造りの建物を 作った。   誰の建築か、設計かは いまだに不明であるが、国内の類似の   カトリックの建物があまり見受けられない。   また 昭和5年当時の 鹿児島の建物、国内の煉瓦造りの建物   この2点においても現存しているというのは 珍しい。   残念ながら、今の2つの修道会、ラ・サール会 フランシスコ会には   当時の記録はほとんど残っておらず、   カナダから 上海経由で煉瓦を輸入して作ったなどの 逸話は 伝聞されている。 3.戦前 Popeの使節団が 訪問するくらいの ところだったらしい。   神学院、幼稚園、(孤児院)などの宣教師たちらしい活動の場であり、   また 鹿児島地区の カトリック信者の 修道院としての機能。   宣教師にともなう自給自足ということで、 今の校庭で 耕作していたと   思われる 記録がのこっている。 4.官憲の監視下におかれていた。   昭和8年?に 引き上げている、詳細不明   以後、日本人の聖職者によって管理されたのが 現存するブラザーハウスであり、   戦争中と戦後のある時期は 鹿児島の純心学園が 使っていた。 5.1949年 当時管理をまかされていた七田神父たちの熱意で   鹿児島に教育を、、ということで、ラ・サール会に買収された。 それ以降の歴史、写真は 同窓会関係でさがせば、でてくる。 古い卒業生の証言を聞くと、同窓会記念誌、わたしがあつめた 写真のいろいろは すべて ただしいことが わかった。 まず、間違いない。 さて、いくつかの疑問である。 1. 誰が、そのフランシスコ会の宣教師に 谷山の土地を紹介したのだろうか? 2. 現存するブラザーハウスの誰の設計なのだろうか? 3. 谷山の聖アントニオ神学院から 巣立った日本人は おおよそわかるが    では 幼稚園、孤児院というのに 通っていたという人は 本当にいまでも    生きているのだろうか? いまなら、当時のことを知らないまでも、伝聞で知っていると言う人が 高齢者でおられる。 聞いて記録に残したい、、 というのが 私の希望である。 そして、それだけの過去のある建物を 保存していきたいという 願いもある。 さて、上の疑問の2の ブラザーハウスの設計だが、 結構 教会というのを見てきたが、どうも、類似性を感じる物がない。 とすると カナダのケベックの人の設計なのだろうか、 国内の作風とはまた異なっている。 いつぞや 書いた 天草物 の鉄川与助さんの作品は ロマネスクか、ゴシックであるが、 そんなのとは ぜんぜんことなる。 昔の鹿児島のザビエル教会の設計は 衛藤右三郎氏であるが、 この人の作風ともちがうし、この人は すでにできあがっていた 現存するブラザーハウスが ラ・サール会の管理下にはいったときに 改装・改築依頼をうけて、急いで図面を引いたという。 (1960年 ラ・サール学園10周年記念誌に投稿あり) ちょっとでも、設計段階からかかわっていたら、そんな文章を残すはずがない。 謎だ、、しかし、謎が多いほど、建築探偵はやりがいがある。 そこで、考えた。。ボクに一連のこのシリーズの手がかりを与えてくれたのは 親切な フランシスコ会の神父様だった。 その神父様からいただいた本は、故人になるが アントニオ平修士の著だった。 1988年6月13日に 発行された カナダ人宣教師の いろいろな記録を たくさんの写真入りで 残した本である。 (2年前に 帰天されたという、、非常に残念) じ〜〜と 考えた、 フランシスコ、アントニオ、、うううう、、と考えるうちに アッシジのフラシスコを うかびあげた。 よし、調べるぞ、、とおもって 検索したおした。 アッシジというのは こういうところです。 http://www.pcs.ne.jp/~yu/ticket/franc/assisi.html そして アッシジの大聖堂 この写真 http://www.pcs.ne.jp/~yu/ticket/franc/assisi.html  この写真の荘厳な 大聖堂、2階部分の塔の左横の建物は  まったくもって 谷山のブラザーハウスの側面そのもの http://www6.plala.or.jp/smqol/atsusiji.html  これをみてください、これは その階上部の 四角い積み木に  三角形の積み木をかさねたような断面のところ、  よく似てますよね。 http://www.mni.ne.jp/~st.francis/pilgrim2003.html  こういうのを見ると アッシジの大聖堂って 美だと おもう。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜 そして、フランシスコ会の聖地となると 聖アントニオ関連らしい。。 ちょっと調べてみた、明日が 聖アントニオの日になる 明日は?? http://web.kyoto-inet.or.jp/people/jeanne/faith/seijin/cal06.html の6月13日のところをみていただきたい ほかにも、 http://homepage2.nifty.com/~castanha/holiday1.htm ただ、、戦前の谷山は 聖アントニオ修道院であり、聖アントニオ神学院だったから、 案外、 パドア(パドヴァ)のアントニオの なにかしらの建物に 類似、模倣がないだろうかと 一生懸命に 検索したが、 聖アントニオ大聖堂の 画像は みつけられなかった。。 残念。 なお、帰天された アントニオ平修士が 熱心に 記録をのこしてくれたおかげで、 わたしは ルーツさぐりができるし、奄美出身で 流暢なフランス語を話し、 実際に 健在だったころ 谷山のブラザーハウスにこられていたらしい。。 もちろん、いうまでもなく、この帰天された修士は フランシスカンである。 6月12日 聖アントニオの祝日13日の 前の日に記念して、 投稿した。三毛 Date: Wed, 22 Jun 2005 14:40:15 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:045419] 建築探偵 鹿児島谷山もの その35 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) 三毛です。 日本各地では 例の滋賀県の豊郷小学校など(こいつは 築70年くらい) をはじめ 古き良き、みんなの思い出詰まった建築が 解体されようとしています。 古い建築を活用するのは 現代社会では ものすごく たいへんなことです、 LANが工事できないとか、暖房冷房が難しい、痛みが激しい、 建物は 公共性があり 立て替えるべき物だ、 など、理由はさまざま、、 昨日、大阪の産経新聞夕刊に 泉佐野市の日根野にある 築100年以上の 建物の解体がでていました、希望者がいれば、移築してさしあげるとのことですが、 移築費用は希望者もち、5000マンから1億円かかるだろうと 記事になっていました、 さっそく検索してみると。 ニュースせんなんの掲示板より http://6917.teacup.com/news6900/bbs そこの泉佐野市の 「日根野の明治建築」の 投稿の一部を引用。 泉佐野市立日根野小学校の敷地内にある明治時代の建造物が夏休みには解体されてし まいます。 この建物は、明治32年に大阪市の中大江小学校として建築され、昭和2年に日根野村 役場として移築、その後、泉佐野市役所分館、泉佐野市立図書館分館として機能し、 平成16年にその使命を全うし、今は解体を待つのみとなってしまったものです。 そもそも、この旧中大江小学校は、船場資源アーカイブとして有名な日本最古の幼稚 園建築「愛珠幼稚園」と同じく、「大阪府技手・中村竹松」さんが設計した、大阪を 代表する明治時代の建造物(文化財級)なんです。 ほかにも、泉佐野市の日根野地区の様々の声として http://www.izumisano-kite.net/machiba/bbs/aska.cgi 100年物の ビンテージ物でも、この運命かとおもうと 75年物の ブラザーハウスはどうなる?? 解体 のプランが 浮上してこないように、 とにかく、保存するだけの 理由を みんなに示したい。 きちんとした 理由があれば、保存しようという 意見が 支持されるとおもう。 そして、いろいろと気が付いてきたのが、単に愛校心から始めた 建築探偵が、実は、鹿児島の昭和史にかかわり、 戦前の暗い世相も反映しつつ、戦後の復興をしっかり 見守り、なにも、同窓生たちだけの 文化財でないことに 気づいてきました。 1920年頃、鹿児島奄美地区の布教活動は、何百キロメートルもの 範囲におよび、歓迎も迫害も 弾圧もあって、その本拠地が どうもブラザーハウスなんですが、 よくまあ 戦争中に解体されずに、戦後は 戦後はすごく活用されて 同窓生の 心の中に 根付いていったとおもいます。 つづく、 Date: Wed, 22 Jun 2005 15:03:27 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:045420] 建築探偵 鹿児島谷山もの その36 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) 三毛です。 「ところてん」 果たしてこの題名が ふさわしいか どうかは わかりませんが、 ふと、そう思ったので、書いてみます。 1800年代後半 アジア地区での 新たな活動をしようとした 男子の修道会の ラ・サール会は、日本に 修士を派遣しています、 不幸にも、最初の一人が 赤痢で 神戸で死亡。外国人墓地に 眠っているらしい。  その後、長崎に派遣された 2人の修士が 長崎での 教育活動の 可能性を本部に報告。。乗り気だったようですが、長崎には マリヤ会という 修道会が学校経営しようとしていて、この地区に2つの ミッションスクールは 無理だろうと言う判断で、 辞退しています、 代替地に どういうわけか、 名古屋が あげられましたが 理由はわかりませんが、ラ・サール会が 見送っています。  (以上、ラ・サール会の略史より) それから、ごく一部の 地域、(仙台の二高での教鞭など)で 非常に少数の修士が 活動していましたが、 現在のような学校経営、孤児院経営などはしていません。 ようやく、函館で 本格的な活動をしようとして、昭和7年に 再度 来日、それも、カナダのケベックのラ・サール会の 修士たちです、 その地に 学校建設をしようとしたものの、軍部の圧力により 断念。。 それが 戦前の歴史になります。 名古屋見送りから、函館到達は 学校経営そのものに 関してであり、 その間、約半世紀ほどのブランクがあります。 本で読むと 単に 空白の半世紀ですが、 どうも、理由があるらしい。それも、ラ・サール会独自でなくて、 もっと大きな理由だと 徐々にわかってきました。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 膨大(といっても、たかがしれていますが) な資料の中には、どうして、日本にはカナダのケベックからの 宣教師たちが どんどん やってきて、活動したのか、 その研究を読んでいたときに、判明したこと。 1900年ごろの フランス政府は、 反宗教政策をとり、 多くの聖職者が 還俗したり、おなじフランス語圏の カナダのケベックにわたったりして のがれていったそうです。 この話は、案外、日本人は知らないらしい。 ある時期、多くのカトリックの修道会が カナダのケベックから、 まるで ところてんで、おしだされるように、日本に やってくる。 きっと フランスの政府の反宗教活動の 反動が ケベックに伝播し 外部への 大きなエネルギーになって 日本に押し寄せたと 最近、感じるようになりました。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ラ・サール会の 日本の略史には 長崎から 函館の間に 長い50年もの道のりがあったと 書かれていますが、 どうも、それは、1900年ごろの フランスの反宗教政策の 影響だろうと 考えています。 ちなみに ラ・サール会の本部は ローマですが、 聖ラ・サールの生誕の地は 北フランスの ランスというところです。 主たる活動はフランスだったのは なんとなく おわかりと思います。 おそらく、ほかの修道会でも、フランスに縁がある修道会の日本の活動は フランスの反宗教政策の影響を 受けているだろうと  わたしは 想像しています。 では。 Date: Sun, 3 Jul 2005 22:02:36 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:045616] 建築探偵 鹿児島谷山もの その37 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) 三毛です。 元祖建築探偵の藤森照信教授(もう 退官したかな?)が 建築を 探偵すると いろいろなことが わかってくる と どこかで 書いておられましたが、昨日、今日は 探偵として、鹿児島谷山ではなく、仙台に飛んでおりました。 結論。。 上記は そのとおり!!! 一見、、一読、、なんら 件名とは脈絡もないと思われますが、 日本で、おそらく 唯一、、アルファベットの「L」 と言う文字から 始まる、母校の 校名を名付けた人物を聞いて。。。。。 そのお話をしていただいた聖職者を前に 山口諸兄と私は まるで テレビ番組の決まり文句のように 「へえ〜〜〜〜」 と思わず 言ってしまいました。。 この話、、ずいぶん、長い余談、プロローグ、関連物も 書きながら、いずれ 投稿します。 あと、母校を経営・管理する 修道会が 新しく 仙台にたてたばかりの 修道院を 修道会の日本管区長じきじきに みせてもらいまして、 はじめて 見た 教会建築に ほお〜〜 と驚いてきました。 あの 美を 写真に納めるには デジカメでは 無理だと わかるような、、構造です。(不肖、私も元写真部部員) 諸外国、国内のいろんな施設 建物 土木を見たことがありますが、 人工物で あんなのを見たのは 初めて。。 それを 外国人の管区長 じきじきに 丁寧に日本語で 説明して頂き とても いやされ、また 驚いています。 つづく。。。 Date: Sun, 17 Jul 2005 04:11:49 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:045750] 建築探偵 鹿児島谷山もの その38 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) みけです。 以前、 カナダ人のフランシスコ会のガブリエル神父というひとが 通称、「お化け屋敷」と言われる 孤児院をやっていた話を フランシスコ会系の 女子修道会のシスターから聞きました。 それは このシリーズで投稿しました。。 あれから、調べてみたら、どうも、その孤児院は 戦前の鹿児島市内を 点々とし、、最終的には 新屋敷町にて、運営されていた と記録にありました。 ですから、当時の 谷山では なかった。 とはいえ、その女子修道会は お告げの姉妹フランシスコ会という名称で、 鹿児島が その修道会の発祥地らしい。。 その修道会を作ったのが 戦前、鹿児島にいた フランシスコ会のガブリエル神父であったのは 間違いない。。 そして、カナダ系のフランシスコ会は 谷山に本拠地があったので、 インタビューした そのシスターが、ボクに「谷山」と言ったのも、 あながち あたっていたわけです。 ちなみに、日本のカトリックは いくつかの教区にわかれているようで、 クーザンという 長崎の 100年くらい前の 教区長は パリ宣教会だったらし い、、 戦前は いまのように 日本人の教区長ではなく、、各地の教区の長は パリ宣教会が多かったようだ。。 なお、理由があって 函館地区の カトリックのことを調べているが、 北海道教区というのは 戦前は ドイツ系のフランシスコ会の人が 教区長を していた。。 さらに、なぜか、、その中で カナダ系のドミニコ会が布教活動を していたようだ。 その縁で、どうも、カナダのラ・サール会が 函館に土地を買い、 学校を作ろうとした、、〜〜〜〜 昭和7年。。 奇しくも 昭和5年には 鹿児島の谷山に カナダ系のフランシスコ会が 鹿児島・奄美管区の布教活動の 本拠地となる、 今 、現存ずる ラ・サール学園のブラザーハウスが できているが まったく 縁がなかった らしい。。。 函館の土地は 軍部の要塞地帯にあり、土地は買収したものの 学校をつくることができず、さらに戦争中は 敵国の財産ということで、 読者の想像する通りのことがおきていた。 学校建設を断念して 引き上げるときに、当時の鹿児島のカトリック迫害も すでにあって 当時の日本において 今後 予想されることでカナダ人ラ・サール会修士は  仙台に縁あって、引き上げている。 この仙台、、戦争中は、カナダ人修士は 敵国人として 抑留されたが、 ドイツ国籍の ラ・サール会修士が いて、戦前、戦争中も、仙台の 第二高等学校 の外国語の教鞭をしていた。 (私が いろいろと インタビューしてきたところによれば、活字にはなっていないが、  このドイツ人、ナチスの迫害から逃れるためにカナダに渡り、その後、  カナダのラ・サール会から 日本に派遣されていたらしい   しかし、国籍が 戦争中は幸いした。) この修士のおかげで、戦争中は かろうじて、1本の糸がつながっている という状態だったが、仙台空襲で すべて 焼失。 空襲後、街中を呆然と歩いていた修士を 当時の東北大学の教授が お世話していたらしい。 もちろん、、カナダ系のフランシスコ会の宣教師たち、カナダ系の ラ・サール会の 修士たち、、ついでに書けば、カナダ系のヴィアトール会の人たちは 戦争中は 敵国人として 神奈川県の山北というところに抑留生活を 送っていた。 もちろん、このカナダ人も アメリカ人も 抑留だったわけである。 戦後、進駐軍の将校に アメリカの ラ・サール会の運営する大学の卒業生が 複数いて、非常に好意的に カナダまで 飛行機で 送り返している。 しかし、抑留されてまで 戦時中に日本にいたカナダ人ラ・サール会修士は すぐに「日本が好き」といって 舞い戻ってきて 戦争直後の仙台で孤児院を始めた。。 しかし。。 どうして、、そのような カナダ系フランシスコ会の建てた 谷山のブラザーハウスが、 戦後、カナダ系のラ・サール会に 売却されたかの 数奇な歴史には、 まだ 運命の糸すら 結ばれておらず、 戦争中 ブラザーハウスの管理をしていた 七田神父は まだ 戦争直後の 日本に 学校経営のみが目的の ラ・サール会という 修道会の修士がいることすら 知らなかったという。 また 同時に 仙台に舞い戻った カナダ人 ラ・サール会修士たちは GHQの方針で 函館の土地を取り返したものの、、 函館での 学校経営をすぐに行わず、 青森県の既存の学校の経営に 乗り出した。 3人のカナダ人修士が 青森県まで いったが、複数の理由で すぐに仙台に引き上げている (このことは 日本のラ・サール会発行の  道のり という ラ・サール会略史の小冊子に 活字で載っている) それでも まだ 鹿児島と 仙台を 結ぶ糸は 存在すらしなかった。 その後、鹿児島の ラ・サール学園創設の 運命の 出会いというのが 田園調布の フランシスコ会の施設で 起こった。。。 こういうときに 得てして 赤い糸が 結ばれたと 書く物だが、 実は 赤い車だった。。と 書いておく。。 この話は 先日の仙台訪問で、 私と 仙台在住の 山口慶一郎先生が 直接 仙台の落成したばかりの 修道院の応接室で 聞いてきたことである。 ここから 谷山と仙台を結ぶ糸がようやく できたのだが、、 まだまだ 本当に 「瓢箪から駒」 というような表現の 開校前の秘話が 聞けた。。  「瓢箪から駒」の件、 後日の投稿へつづく、、、、  仙台訪問で インタビューしてきたことは まだまだ 秘話がある。 だから、建築探偵は やめられない。。。。 あえて 私見ながら、、ボクなりの表現をすれば、 2つの修道会が キーポイント。 それも、、函館にある 兄弟校は カナダのドミニコ会と カナダのラ・サール会 鹿児島の方は、カナダのフランシスコ会と カナダのラ・サール会 が 「入植 開墾、種まき 栽培、結実」 という 時系列をやっていた と考えている。 そして、、このメールでは カナダ、カナダと書いたが、 カナダでも、 ケベック と書いておく。 ブラザーハウスの 歴史的研究が (建築探偵が) カナダ〜日本、、 というよりも、ケベック〜日本の 歴史的な関係。 そして、 薩摩人でもない非信者の わたしが、どうも、戦前の 鹿児島での カトリック迫害という 「パンドラの箱」を開こうとしているところま で発展していった。。 8月15日、戦後60年。。その日までに 一度 その箱を開いてみたい。 ハコから何がでてくるかは、 やってみないとわからない。 その箱は 東京にあることは 判明している。。 東京に行かねば、、、それと その前に 神戸にも、どうも 行くべきかもしれな い。。 では、、その39に 神戸について 書く。 Date: Sun, 17 Jul 2005 05:17:22 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:045751] 建築探偵 鹿児島谷山もの その39 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) みけです。 「神戸」 インターネットで ラ・サール といれて検索 (決して ラサールではない点にご注意) したら、、いろんなことが ヒットするはず。 そこに 聖ラ・サールのことが書かれているサイトとか、 Wikipedia とかいう ところには 昭和7年 日本に来る とか、、書かれています。 いちおう、20年くらい前に 発行された 小冊子 「道のり」を 読むと、会の略史として、ラ・サール会という修道会が 19世紀の日本での活動が 載っています。 ええと、、略史の「道のり」での記載は かつて このシリーズで 投稿しましたが、 シプリアンという修士が 日本の地を初めて 踏んだ? 修士になります。 道のりという冊子は もう 大事にしまい込んでいるので 私の記憶で 書きますが、1887年だったはず、、 香港から、横浜めがけて、 来日しようとした。。 理由は わかっていません。 途中 赤痢にかかり、神戸で下船、 これが、第1歩になるのです、 しかし、この修士 5月のはじめに上陸して、あっという間に病死。 5月の10日だったはず。。 神戸の外国人墓地に 眠っているとのことですが、 そのとき、面倒をみてくれた 宣教師が ラ・サール会の本部あてに (本部はいまは ローマ、、その前は ベルギー、さらにその前は ボクは知らない) シプリアン修士の死を知らせる詳細な手紙を送っています。 ほ〜〜〜〜 と 思って、、興味をもち、、この際、谷山ものから、派生して、 この件も調べて 墓参りというのもしてみたい。。。 なぜなら、元祖建築探偵の 東大の藤森教授は 建築探偵するときは その建築物を設計した子孫を捜し出し、御本人の墓碑まで 調べ上げるという 徹底したやり方なので、ボクもしてみたい、という 好奇心もあり、 また、抗生剤がなかったその時代のことを 医史学の本で いかに 悲惨だったかは 知っているので、せめて 墓参して 合掌したいと 思いました。。 しかし、明治時代は 神戸の外国人墓地は 今の神戸の街中のど真ん中にあったが、 1930年代に 六甲の山の上に 移転しており、 そこには 50以上の国、20以上の宗教の 外国人の墓があり、 管理区域で そう簡単には 入れないらしい。 それに、移転したときに 故シプリアン修士の墓は どうなったかは わからない。 だが、、仙台訪問で、なんと、80才を越えている 元校長先生は わざわざ 個人の写真アルバムを 用意してくれて 見せてくれた。 そこには ボクが墓参はあきらめていた 故シプリアン修士の墓と 元校長先生が 写った写真が あった。。 十字架と ○の 組み合わせた とても立派な墓で、石造。。 サイズは 大人の身長と比較できるくらいの 大きなもので、 確かに アルファベットで シプリアンと刻まれ、 セント・ヨゼフスクールだったか、カレッジだったか、、とにかく、 ホンコンの ラ・サール会の運営の学校名が刻まれていた。 (○に十の字と書けば、島津家の家紋ですが、あの家紋の  十の横棒が ○の外まで左右対称にのび、縦にも   ○の外に十分長く伸びていると 想像していただければ良い) はっきりと写真で その刻字が 読み取れた。 場所もわかった。 マリスト会の墓地がある一画に 墓はある。 誰が墓を作ったのかはわからないが、、マリスト会の人が探し出して 教えてくれたそうだ。。 没後 120年近いが、墓の管理はとてもよく行き届いている。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 8月初頭 鹿児島のラ・サール学園の校長が 大阪にやってくる。 ちょっと理由あって、その会合に 私もOBとして 参加させて頂くことになっている。 その会合は 同窓会とは また 別の会合だが 松爺の尽力で組織化された会合と 書けば、ご想像つくだろうか。。。 ひとつ、、今回は 校長に直訴という形をとらずに (すでに ブラザーハウスの件 で 複数回 直訴した、、、)神戸墓参の組織化というのを 松爺の手法を見習って、 校長に上手に 提案してみようと思っている。 いま、、その戦略ではなくて、戦術を練っているところである。。 なお、、この墓参の件、 某ミッションスクールは 入学したら 必ず 新入生全員が 引率されて、外国人の創立者の 墓碑に 墓参に 行くという 伝統行事を参考にしている。 不肖三毛が 鹿児島の学校の新入生を わざわざ神戸まで 墓参に来させるなんてことは 無理なくらい 重々承知している。 でも、妙案が浮かんできた。 校長に提案しにいって、、ボクもなんとか 第1回墓参団に 参加したい。。  では。。。 Date: Mon, 18 Jul 2005 22:56:03 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:045774] 建築探偵 鹿児島谷山もの その40 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) みけです。 「赤い車」 戦後 カナダから舞い戻った多くの修士は 進駐軍のフラナガン氏の政策の 戦災孤児救済事業として 男子のみを収容する 孤児院経営に 仙台でのりだした。 いまは 東仙台というところだが 旧名 光が丘という丘の上に とんがり帽子の 時計台に似た修道院を造り多くの孤児たちを育てた。 その修道院の写真は見たことがあるが、先日の仙台訪問では跡形もなく、 なくなり、新しい立派なものに 変わっていた。 そんな 光が丘の孤児院、いまの仙台ラ・サールホームの運営には どうしても車が必要なので、車を取り寄せた。 それが 引き取りにいったら 「赤い車」だったという。 港は おそらく横浜だったはず。 そして、2人の修士が その車で仙台に買える途中に 田園調布の フランシスコ会の教会に立ち寄った。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 そのころ 日本の南の果ての鹿児島では なんら 戦災をうけなかった あのブラザーハウス( 木造の初期のものも含む) の管理は 日本人の 七田神父が 住んでいて行っていた。 ブラザーハウスの横には 戦前戦後の 純心の校長先生をしていた Mさんが 住んでいた。 Mさんのご子息には 非常に偶然だが、お会いできた。 私の持っている資料 写真をみせて、すべて確認していただいた。 それで 木造のブラザーハウスのこと、(昭和29年焼失) 今も現存する煉瓦造りコンクリート塗装のブラザーハウスのことが 聞けた。 もちろん、七田神父が管理していることも きちんと聞いてきて確認した。 七田神父は とにかく、戦前の フランシスコ会の意志であった 学校経営をしてくれそうな 修道会を 探していたらしい。 まずは 学校経営で 戦前から日本で実績のある マリヤ会に打診する マリヤ会は 長崎の海星、東京の暁星などを 運営していると書けば おわかりだろう。だが 戦後のマリヤ会も 大変だったのは 誰しもが想像がつく。 マリヤ会に 断られた後も どこか引き受けてくれる修道会をさがしていたそうだ。 東京に出られ、偶然、田園調布の フランシスコ会に七田神父がいる日に 赤い車に乗った カナダ系のラ・サール会の修士2名が これまた偶然、 田園調布のフランシスコ会に 寄ったのであった。 そのとき、学校経営ばかりする ラ・サール会の修士が日本にいるなんて 知りもせず、とても驚いたらしい。 そこで 初めて 仙台と鹿児島を結ぶ 細くて長い糸が 結ばれた。 ただ、結ばれただけで、その糸で引き寄せれるほどのものは なんらなかったらしい。。 つづく、、 Date: Mon, 18 Jul 2005 23:24:27 +0900 From: "mike norio BB" Subject: [LOCALMTRET:045775] 建築探偵 鹿児島谷山もの その41 To: localmtret@umin.ac.jp (LOCALMTRET-ML) みけです。 「瓢箪から駒」 糸は なんと 田園調布のフランシスコ会で結ばれた。 詳細な時系列はまだあわせていないが、 おそらく七田神父は 感じるものが大きかったのだろう。  弟のもうひとりの七田神父を 仙台にまで派遣しているようだった。 でも、それは 糸を引き寄せるだけのものではなかったらしい。。 そんなころ、日本人ラ・サール会修士の親戚が 北九州の明治学園のシスターにい て、ちょうど明治学園のそばに 良い土地があり、早く買いに来たらどうですか?  という連絡があった。 この話、青森から引き上げたあとのことで、乗り気となり、本当に 買収に グラン マルセル修士(通称、マルセル爺)が でかけたのである。 実際に仙台から当時の日本を 縦断・横断して 北九州までたどりつき、買収するは ずだったのが、 ちょっとの差で アサヒガラスという会社が 買収したあとだった。 だが、ひょうんたんから駒とはこういうことなのかもしれないが、、 そのとき、グランマルセル修士は せっかく九州にまでやってきたのだから、七田神 父が勧誘する鹿児島の谷山というところに 行ってみようと思ったらしい。 今の日本人には想像もできない発想かもしれないが、このカナダ人修士は なんと  鹿児島の谷山までいってしまったのである。 この話は 在学中に一度だけ聞いたことがあり、ラ・サール会の出版物には活字とし ては載っていないが、当時を知る元校長先生が 今月 わたしに話したのだから ま ず 間違いない。 そうして、長い長い 鹿児島と仙台をつなげた糸は、「瓢箪から駒」で たどりつい たのである。 ラ・サール会念願の 日本での学校経営が あとは 「翔ぶが如し」で進んでいく。。 戦前 もっともカトリック迫害がはげしかった鹿児島・・ その地の激しい迫害が  戦前の函館のラ・サール会ひきあげの理由に 活字として残っているのに、 実に運 命のいたずらとも 書けそうな縁で、カナダ人ラ・サール会修士たちの希望が かな えようとされていた。 買収資金は カナダから送られた カナダ人たちの1ドル紙幣がたくさん混じったお 金だったという。 これが 開校1年前の話になるはず。 おそらく、1949年ころの話のはずである。 だから、現在の残っているブラザーハウスは その戦前の迫害の歴史から、戦争、戦 後の混乱期、戦後の平和の日本、鹿児島 谷山を見てきた 貴重な 文化財と 思い 始めてきた。 つづく、、